言葉の手前にある風景 ─ クンダリーニとイメージの記憶

私には、昔から「物事を言葉で考える」という感覚があまりなかった。子どもの頃、考えごとをするときはまるで映画のように頭の中に映像が流れ、そこにある登場人物や風景が何かを“感じさせて”くれるのだった。

その感じさせてくれるものは、言葉にするには繊細すぎて、儚すぎて、一度「語ろう」とすると、たちまちその輪郭を失ってしまう。

私は思う。もしかすると私が表現に惹かれてきたのは、言葉が足りなかったからではなく、言葉では足りなかったからではないかと。

 

写真、料理、そして沈黙

私は写真を撮る。そして料理をつくる。どちらも共通しているのは「見た目に強くこだわる」ということ。でもその「こだわり」は、他人にどう見えるかではなく、自分の内にある“景色”とどれだけ重なるかという軸にある。

写真も、料理の盛り付けも、“こう見せたい”ではなく、“こう見えてしまった”という直感の延長線上にあるものなのだ。それはまるで、世界の静けさに耳を澄まし、そこにあるものをそっと写しとるような行為。

 

クンダリーニ覚醒と、言葉を超えた知覚

私はクンダリーニ覚醒という体験をした。そのとき、世界はひとつの流れとなり、境界はほどけ、時間の感覚さえ消えていった。それは“理解した”というよりも、“思い出した”という感覚に近かった。言葉よりも前に在るもの。思考よりも深いところに眠っていた記憶。

そこでは言葉は不要だった。すべてがすでに繋がっていて、ただ「在る」だけだった。風のざわめきも、鳥の影も、自分の息づかいも、すべてが音楽のように調和していた。

私ははっきりと知った。私が「イメージで考える」のではなく、「世界がイメージとして私に語りかけている」のだと。

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言葉のもどかしさと、それでも伝えたいということ

私にとって言葉はいつも翻訳だった。頭の中にあるイメージは、鮮やかで、生きていて、そして立体的だ。でもそれを話すとき、どうしても「言葉という道具」を通さなければならない。

そのたびに、私はまるで言葉の国に来たばかりの留学生のように、ぎこちなく、たどたどしく、「ほんとうはもっと伝えたいのに」ともどかしさを抱える。

けれど同時に、私はこうも思う。伝わらなくてもいい。でも、伝えようとすることで、言葉にならないものが“滲む”ことがある。その滲みこそが、私の表現なのだ。

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表現は、祈りに似ている

クンダリーニ体験のあと、私は確信した。表現とは世界と再びひとつになるための行為だ。それは自分の感覚を人に押しつけることではない。ただ、「こんな風に世界が見えた」という記憶を差し出すだけのことだ。

そしてそれを受け取った人のなかに、新しい風景が立ち上がったとしたら、それは言葉を超えた、ほんとうの対話なのだと思う。その感性の源泉は、“世界が語りかけてくるそのままを、なるべく傷つけずに伝えたい”という静かな願いなのかもしれない。

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